日経新聞のコラム「春秋」に、昔の人が詠んだ桜にまつわる歌の紹介がありました。今回は先の記事の後編として、蒲生氏郷と在原業平の歌についてご紹介します。
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自らの病魔を花を散らせる風にたとえた蒲生氏郷
限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山風
風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、いつかは散ってしまうのです。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのですか。
蒲生氏郷は戦国から安土桃山時代にかけての武将で、信長や秀吉に仕え、最後には会津92万石の領主となりました。文武両道で千利休の弟子でもあったそうです。
この歌は氏郷が詠んだ辞世の句で、自らの病魔を花を散らせる風にたとえてうらやんだと言うことです。1595年2月7日、京都の伏見で逝去、享年はなんと40歳でした。
はなやかな桜をうらやんだ在原業平
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
この世の中に、まったく桜の花というものが無かったならば、春を迎える人の心は、おだやかでいられるだろうに。
在原業平(ありわらのなりひら)は平安時代初期の貴族、歌人です。百人一首17番の作者で、六歌仙、三十六歌仙の一人でもあります。また、「伊勢物語」は彼自身が主人公のモデルとされていて、この歌も伊勢物語で詠まれているほか、さらには古今和歌集にもおさめられています。
歌の直接の意味は、「桜が無ければ花が散るのを心配したり、名残惜しんだりすることもないので、春の気分はのんびりするだろう」というものです。
ただその裏には、春の季節が穏やかであればと表現しながらも、逆に、そわそわとさせられる春の気持ちや、そうさせる桜への愛着が表現されている歌でもあります。
業平が生きた時代は西暦800年代の平安初期で、歌自身は約1200年も前に詠まれたものです。しかしながら、そこで歌われている気持ちは今の日本人にも充分通じるものがあり、共感できます。
おわりに
日経新聞のコラムで紹介されていた、桜にまつわる古人の歌を紹介させて頂きました。
桜に寄せる古人の思いは様々なものがありますが、日本人として綿々と受け継がれている共通の感覚も多いと思いました。
今の時期はちょうど桜が満開、外を歩いているととても気分がはればれします。やはり日本人と桜は切っても切れないものだと改めて思いました。
ちなみに記事中でも紹介した伊勢物語は、今の感覚でもかなりぶっ飛んだお話のようです。古典というと取っつきにくい印象がありますが、今では漫画でも読めてしまいますね。
[参考文献]