ブラタモリ「水戸」ドラマ水戸黄門の起源はこんな理由だった。

ブラタモリ水戸
ブラタモリ第61回は茨城県水戸市。ドラマ水戸黄門の起源やそのモデルとなった徳川光圀による大日本史、さらには弘道館、偕楽園など興味深かったのでご紹介します。

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藩の財政は大赤字

水戸藩は尾張(名古屋)、紀伊(和歌山)と並ぶ徳川御三家の一つですが、藩の財政事情は大赤字、破綻していてもおかしくなかった状況でした。寛永20年(16434年)の収支は、収入が8742両(11億6000万円)、支出が1万8660両(24億8000万円)、借金の利息も2300両(3億円)というものでした。

赤字の大きな理由は、江戸と水戸の二重生活。紀伊や尾張と比べるとなまじ距離が近いため、江戸に藩主がいる時間が長く、家臣や家族にかかる経費が多かったということです。

それゆえ、藩の精神は「そこにあるものは何でも有効活用する」というもの。お城の門や土塁は以前の藩主(佐竹氏)が作ったものを受け継ぎ、堀も自然の谷をうまく利用して建設費用を抑えていたそうです。天守閣として建てられた建物にも石垣はなく、櫓(やぐら)と言ってもよさそうな非常に質素なものでした。

かつての水戸城

水戸城の天守閣として建てられた三階櫓 (Source: ブラタモリ)

徳川光圀の業績

笠原水道の建設

徳川光圀は家康の孫、水戸藩の第2代藩主です。

光圀の業績の一つは城下町を東に拡げるために新しく水道を引いたことです。これは笠原水道と呼ばれ、昭和7年まで270年間も利用されていました。

水路は石組みで蓋も付いており、暗渠として水源から城下町まで引かれていました。水源からしばらくは湿地帯の地中を通し、そこで豊富に湧く湧水も水路に取り入れる仕組みになっていました。「あるものは有効活用する」という水戸藩の精神がここにも取り入れられているようです。

「大日本史」の編纂

水戸黄門のドラマにつながる編纂事業

大日本史は光圀が編纂した日本最大級の歴史書。初代から100代までの天皇の治世を記したもので全402巻もあります。

光圀は学問の大切さを強く感じており、それが大日本史の編纂に取り組んだ一つの理由と云われています。人材を作る学問を通して、”人”という「あるものを最大限に活用する」ことにつながりました。

編纂は光圀の時代(明暦3年、1657年)に開始されましたが、完成したのは明治39年(1906年)。なんと約250年もの間水戸藩の事業として続けられていました。

光圀はこの編纂事業のため、全国に人を派遣し、資料の収集や研究に当たらせたと云うことです。ドラマでは諸国漫遊をしている黄門様ですが、実際には鎌倉までしか行ったことはなく、各地に派遣した水戸藩士のお話がもとになっているようです。

大日本史が後の幕末の志士を育てた

大日本史は幕末に全国50カ所以上の藩校で教科書として使われています。水戸学として各地に伝わり、それとともに編纂した徳川光圀の名前も人気となったようです。水戸学は天皇を中心として国を整えるという考えであり、その幕末期の教科書を通して、薩摩や長州といった日本各地に「尊皇攘夷」の考えを伝えることにもつながりました。

大日本史編纂が水戸藩の伝統的一大事業となり、それが水戸学という思想を生み、日本全国に影響を与えました。光圀の人材育成の考えが藩の基盤として定着し、それがもとで吉田松陰をはじめ日本全国の人材を育てることにつながったとも云えます。

弘道館と偕楽園

弘道館

弘道館は水戸藩の教育施設で、日本最大の藩校と云われています。幕末の天保12年(1841年)に9代藩主の徳川斉昭によって創設されたものです。

この弘道館自体も光圀のおかげで作られたもので、「光圀の学問を大切にする思いを引き継いで建てた」という斉昭のことばが碑として残されています。

番組では軽くスルーされていましたが、弘道館の入り口には「尊攘」と書かれた有名な書が掲げられています。言うまでもなく「尊皇攘夷」の意味ですが、松延年(まつのぶ・とし)という藩医が安政3年(1856年)に書いたものだそうです。

偕楽園

偕楽園は弘道館が創設された翌年、天保13年(1842年)に創設された大名庭園で、日本三大名園の一つでもあります。(あとの二つは金沢市の兼六園と岡山市の後楽園)

言葉の響きが「快楽園」とも聞こえて楽しい所のように思えますが、もともとは弘道館と同じく、教育施設として作られたものです。

梅園で有名な偕楽園ですが、表門から入るとまずは深い竹林があり、落ち着いた雰囲気の道を進みます。それを過ぎるとあたりが開け、そこがゴールの梅林となります。

竹林と梅園は陰と陽の対比として作られており、思索にふけりながら、そのどちらも体感できるように設計されていると云うことです。残念ながら、多くの人は別ルートで直接梅園に入るそうなのですが。

水戸藩の教育方針「一張一弛」

弘道館と偕楽園は、どちらも教育施設として相次いで作られています。すなわち、弘道館で学問に取り組み、偕楽園で心と体を休めることができるというわけです。

この水戸藩の教育方針を表す言葉が「一張一弛(いっちょう・いっし)」です。

これは、弘道館で張る(緊張する)ことも、また偕楽園で弛む(リラックスする)ことも2つまとめて勉強である、という斉昭の考えを示したものです。なかなか面白い考えですね。(タモリさんは「一弛、さらに一弛」で弛みまくりだそうですが…)

おまけ

番組最後のタモリさんのことばは「ナットーク」。偕楽園の屋台で水戸納豆のごはんを食べながらのひと言。

水戸納豆は偕楽園の観梅のお土産として有名になったということです。

「ブラタモリ」は書籍にもなっていますね。下でご紹介したのは、今回の水戸を含む第11巻。書籍はすでに18巻も出ていますが、人気もあって入手が難しいものもあるようですね。そして番組はもう160回を超えています。番組の魅力故でしょうが、なかなかすごい番組です。

オープニングとエンディングの曲も良いですね。この「女神」と「瞬き」は以下の井上陽水さんのアルバムに収められています。